サンシャワー展に行ってきました
この夏六本木の森美術館と新国立美術館の両方で同時開催されている、サンシャワー展に、昨日、行ってきました。
サンシャワー展はASEAN設立50周年を記念して開催されている国内過去最大規模の東南アジア現代美術展で、私としても、東南アジアのアートというものに初めて触れた体験でした…!
アートというものに興味を持ち始めたのは、大学生も後半になってからですが、今まで見てきた作品と東南アジアのアートは、かなり色が異なるなと初心者ながらでもよく解りました。
東南アジア地域は第二次世界大戦が終戦した後も、独裁政権などが多く存在し、国民は表現の自由はおろか、命までも狙われることが多々あったのです。(日本は1945年以降、平和を保ち続けているから考えにくい事実ではありますが…。)
例えば、カンボジアのポル・ポト政権、インドネシアのスハルト大統領による開発独裁等々。
今でこそ東南アジアは経済発展を遂げ成長してきてはいますが、
本当に最近まで、苦しい生活を強いられてきた国民はたくさんいます。
そのような状況の中で、発展してきた東南アジアのアートは、当然の成り行きではありますが、
やはり、自国の独裁政治に対する抗議の念や平和への思いを強く込めた作品が本当にたくさんあるように見受けられました。
これは、インドネシアのスハルト大統領による30年間の独裁政権が終了したことを示すインスタレーションです。
学生運動に使われたというオートバイの上には、イスラム教徒や政党、軍隊などの様々な団体の声が側に印刷されはためいています。
こちらはベトナム戦争の北爆の際に実際に戦闘機の中で使用されていた椅子を使用した作品です。
これは、シンガポールがマレーシアから独立せずに、マレーシア国に統一されていたら…というもしもの状況を皮肉たっぷりの歌と映像にしたてた作品です。
カラオケボックス風の部屋で映像を放映することで、不気味なほどの愉快さみたいなものを感じ背筋がぞわっとなりました…。
新国立美術館の展示の最後にある参加型のインスタレーション作品です。
消費文化と資本主義経済に対して批判的なまなざしを向けた作家は
5トンにもなる糸の山の中に鑑賞者を迎え入れ、この中に紛れ込んでいるという金のネックレスをさがさせるという趣旨にものであり、
その必死に探す様子姿を外から客観的に見ていると、確かに消費文化をもっとも簡潔な形で表しているように感じる面白い作品でした。
37ど
昨日は気温が37度もあったらしい
君の平熱の温度とおんなじだ
君に抱かれた時、こんなに熱かったかな
雨のにおい
この時期になると毎年、雨のにおいをたくさん うんと嗅ぐことができるからうれしい。
かんかん照りで暑い日が続く真夏の日々の中のひとときに
雨のにおいを嗅ぎながら目を瞑るとなんだか都会ではなくてどこか森の中に入ってしまったような感覚になって、
安心すると同時に不安にもなる。
この不思議な感覚に誰か名前をつけてくれないかな。
私という病
中村うさぎさん著の「私という病」という本を読んだ。
私はここ最近、ブログのテーマにも頻出して見られるように
女の価値。ということをよく考える。
ここ数年間、多くの精力的な女性運動家のおかげで、女性の社会進出がものすごい勢いで進んでいる。
それは、一人の大人の女性としての価値は、どれだけ社会で活躍をしているのかという物差しで、
男性と同等に価値を定めることができるようになったということでもある。
年収、地位、役職云々…。
でも女性自身、どれだけ社会で活躍しているのかという部分だけでは価値を計るためには
足りない。
女性としての価値というものは、もっと重要なところにある、と考える人が多いのではないだろうか…。
みなさんは、
当書にも記述があった、東電OLの方の事件をご存知だろうか?
慶応大学卒業後、初の女性総合職社員として入社した女性が、
昼間は男性社員と同様にバリバリと働きキャリアを築く一方で、
退社後は、毎晩渋谷円山町で待ちぼうけ、見知らぬ男を誘いホテルに行っていた。
この女性には及ばないが、自分自身、男から見た自分の性的魅力のレベルを図るために渋谷でナンパを待ち、その男についていった経験がある。
怖くてたったの一回きりであるが。
要に、女性という生き物は、多くの場合、「男性から見た自身の魅力のランク」によって
女性としての自分の価値を計っていることはまぎれもない事実なのではないだろうか。
この本を読んで。
どの時代にも男に愛されたい、モテたい、欲情させたいという気持ちは
女性の中に大きな野獣として眠っていて
自意識が触発された時に、大きなあくびをして
外に出てくる。そんな存在なのではないかなと思った。
多重人格のススメ、スルメ、ああビール飲みたい。
このご時世、自分らしさとか、自分探しとか、素の自分とか…ものすごい、”個性”というものが最高のものであるかのように扱われている風潮あるよね。
個性至上主義みたいな。
自己分析の本はすごく売れているみたいだし、自分は何者で、どこへ行くのか。みたいな。みんなみんな個性を探してる。
でも、素の自分ってなんだ?キャラってなんだ?
家族の前と友達の前だと全然タイドが違うんだけど、どっちが本当なの?どっちが素の自分なの…?
思うに、どっちも自分なんだよ。
恋人の前での甘えきった自分、友達の前でのクールな自分、家族の前での反抗的な自分
。関わる人によって自分が少しずつ変化するのって当たり前だし、むしろ素の自分見せてって言われても、
誰かと関わって話をしている時点で、それは素の自分ではないんじゃないかと思うよ。
素の自分っていったら、すっぴんで口開けてよだれ垂らして寝ている
その瞬間だけだろうと思うよ。
だからどれも別に自分でいいじゃん。
どの人と関わっている自分も自分でいいじゃん。一つに絞ろうとしないでさ。
演劇ってあるじゃん。演劇ってようは他人の人生を生きてみたいっていう気持ちから生まれたものなんだと思うの。お芝居の中なら、王女にも、貧しい女の子にも、妻にも、愛人にも、いじめっ子にもなれる。
他の人の人生を生きてみるってことになる。
この演劇を自分の生活い取り入れてみるって考えるとワクワクしてこない?
自分というものを一つの枠に押し込めるんじゃなくて、逆に自分の中に、たくさんのキャラクターを作って、その人の人生を生きてみるの。
丸の内のOLさん、女子大生、ぶりっ子、ク−ルビューティー
名前、格好からメイク、喋り方まで変えて一日過ごしてみるの。
できれば人とたくさん会話ができる、でもその人とは永遠に関わることができないような人が、いいね。
相席屋とか合コンとかがいい。もうそれきりだから心置きなく演じきることができるよ(笑)
そうして関わって、得たもの、情報から、オススメしてもらった本やアイテムとか。
読んでみたり買ってみたり。今まで出会ったことのない世界に入れちゃったり…。
嬉しい!!
ねえみんなしってた?
世の中はまだワクワクするものばっかだよ!!
書を捨てて、キャラを着て、町へ出よう。
枯れゆくからこそ美しく見えるということ
花は枯れゆくからこそ美しい。であったか、正確には忘れてしまったが、
こんな言葉を始めに言い放ったのは誰だったのだろう。
日本人の心の奥底には、
うつくしいものは諸行無常であり、一時的なものである
という共通した美学があるような気がする。
だからこそ、人はドライフラワーでもなく、プリザーブドフラワーでもなく、生花に感銘を受けるのであり、美しいという感情を抱くのだろう。
永遠に続くことはないからこそ、恋愛というものはキラキラと輝きを帯び、
永遠に続くことはないからこそ、終わりが見え隠れすると不安になる。
そんなことを考えていた、じっとり暑い夜なのでした。
愛に飢えた女の末路
気づいたらもう、
2人とも
惜しみながら少しずつ飲んでいたお酒を
ぐびっと一気に飲み干していて
わたしの左手が
男の右手に包まれて
引かれていた
休憩する?こんなにも
取って付けたような軽い言葉
久しぶりに聞いたきがする。
風に吹かれて飛んで行きそうな
軽々しい男と
安っぽくデコレーションされた
室内はどこか似ていた
部屋を後にするときは
もう何の気持ちも起こらずにいた
もういいやの諦めの気持ち
これがわたしの恋愛なんだって
思おうとしてた。