ぐさっと刺さることを言われたなら、逆にエネルギーにしちゃおう。という話

最近とてもモヤモヤする出来事が起こりました。

 

実は高校時代に仲よかった友人と久しぶりに再会していて。

 

彼女は大学入試に失敗したことをきっかけに、大学入学当初から意識4年後の就職に当てており、

いわゆる大学生らしいことは経験せず、起業やインターンなどを通して、大学生ながらにして多くの経営者や立派な社会人の方とお会いしていました。

 

そんな彼女はもちろん、就活に強い。インターンは面白いように受かるし、なんともう企業から囲い込まれてるみたい。

 

一方の私はというと、、将来に確実に迷走しながら大学3年間を過ごしていました。

 

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いろいろやりました。

大学生らしく大学一年生の時はサークルどっぷりの生活。飲んで喋って、初めての恋をして。単位は落としても、その後はおつかれ様呑み。

 

塾でのアルバイトをしたり。これはバイトの中で一番面白かった。

 

生徒のためにクイズを作ってトイレや廊下に貼って、楽しく勉強できるように工夫をしたり、

 

相手が小学生だったので、とにかく楽しみながら勉強できる環境を整えてあげるのはすごくやりがいがあった。

 

他にもライターや長期インターンにも手を出してみた。

 

だけどやっぱり、わからない。

働いてみても。、自分の価値観が見えてこない。

 

私は何に楽しいと思えるのか…考えて、悩んで、考えて、実行して、また悩んで、の繰り返しでした。

 

正直辛かった。

 

考えなくても今までは生きてこられた。だからずっと恋愛とか友達とワイワイ騒ぐことで、思考を停止してた。

 

でも私はある日重大なことに気づくことができて。

 

それは、自分は昔から自分と異なる価値観を持つ人と接することで、エネルギーを蓄えてきたということ。

 

特に、小学校低学年の時から親には世界各国に旅行に連れて行ってもらった経験があって、そこで見たこととか聞いたことは、自分にとって強いインパクトがあって。

 

その後の生活でも、異国ではなくても、いろんな価値観を持った人と接することがすごく自分の中では大切な要素になっていたんです。

 

中高女子校に行ったこともあって、様々な性格や趣味を持った女の子に出会ったことも、すごく大きい。

 

そんなこんなで、私は、人の価値観に触れることが好きだということ、

そして、彼らがどんな価値観を持っていようと、受け入れる素地が自分の中にあるっていうことに気づくことができて。

簡単に言うと、「どんな人も、それぞれの魅力や可能性を内に秘めている」っていうことなんだって。

こうやって言語化してみると、ものすごく自分の中に腑に落ちて。

 

これだ!って思えたら、涙が出てきた。

 

三年間ずっとわからなかった、いや20年間生きてきてずっとわからなかったことが

 

自分自身のことがやっと分かってあげられたって。

 

どんな人も、それぞれの魅力や可能性を内に秘めている」この言葉を大切に生きようって決めた。

 

そうして自分自身のことがわかってからは、すごく早かった。

 

人の魅力を最大限に引き出せるもの…インタビューや!

 

そうしてインタビュー活動を始めて。

 

今まで、新しいことを始めてはやめて、の繰り返しだったけど、

 

やっぱり自分は間違っていなかったみたいで。

 

この活動を通して、多くの人の生き方に触れて、

同時に多くの人の価値観に触れて、

なおかつ、その人が持つ魅力をインタビューで引き出し、記事にしてプレゼントすることで、感謝されることが多くなって。

 

ああ、これだ、楽しい。

 

心の底から声が出てきたんです。

 

でもこれに気づいた時は時はすでに3年の秋。

 

皆は就活のために今までやってきたことをまとめる作業に入っていました。

 

私もとりあえずESを書いてみようとパソコンを開いてみるものの、

 

そこには「学生時代頑張ったこと」、「…。」「企業に入って成し遂げたいこと」「…。」

 

完全にお手上げでした、

 

自分の人生で大切にしたいことがやっと見えてきて、

喜んでいたのもつかの間、

私何もやり遂げてないじゃん。

 

なら、やり遂げるか。

 

休学をして、海外インターンに臨むことを決意しました。

 

そして、インタビュー活動で、多くの方にお会いして魅力や可能性を引き出す作業をしつつ、大学に戻り友人と触れ合うことで受ける、

負のオーラにものすごくギャップを覚えることが多くありました。

 

自分が何をしたいかわからない。何の取り柄もない。魅力なんてない。

そういう声をとてもよく耳にしていたのです。

 

私から見れば、彼らは十分勉強を頑張っているし、

サークルに熱心だし、辛い時にはよく励まして笑わせてくれる

魅力的な子なのに。。。

 

就活を目前にしてしまって、私を含め、周りの学生が、自分を卑下してしまう、この環境を何とかして変えたい。

と思うようになりました。

 

これもインタビュー活動をして「どんな人にも魅力はあるんだ」

ということを学べたからであって、

このタイミングで、インタビューというものに出会えたことには、

運命に感謝してもしきれません。

 

自分の大切にしたい軸で働くことができそうな、

教育や人材業界を探して、海外インターンをすることに決めました。

海外にこだわるのは、あえて過酷な環境に自分を追い詰めても

自分の大切にしたい軸を愛せるのか

これを試したかったからです。

 

そして、大切にしたい軸を自分の中の想いではなく、

働いて業績として把握することで、

はっきりとを持ったものにしたい。

 

そう思ったんです。

 

そうして日本に帰ってきたら、

その経験をもとに、自信を持って社会に出て行きたいです。

 

今海外インターンに行くのは、決して負の理由ではなく、

 

自分のこれからの人生で大切にしたい、「人の魅力や可能性を引き出す」ことを

仕事を通して体感して、その上で納得感を持って

この気持ちを社会に貢献したいと感じたからです。

 

少し怖い気持ちもあるけれど、自分ならきっとやれる。

準備をしっかりしたら、あとは一つ大きくジャンプしたら、

もうそこはチャレンジの場なんだと思う。

がんばろう。

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 話は戻って、

 

そう踏ん切りをつけている時に、

友人に会ったのです。

一通り話した後、

 

確かに強みがないよね。

本当に行くの?

失敗したらどうするの?

本当に成長できるの?

 

 

ぐさぐさと言われてしまいました。

 

 

これだけ言われるか、、と正直凹んでしまいましたが、

 

もっとインターン先を慎重に選ばないと!

海外インターン経験者にインタビューしに行って価値を最大にしよう!

目標も立てよう。

行く前にきになる日本の企業もみておいたほうがいいな…

優先順位をつけて、一番やらなければければならないことを見極めなくちゃ。

 

たくさん背中を押してもらえました。

 

言われた直後はすごくモヤモヤしたけど、

整理したら、今はエネルギーにできたよ。

 

私は、この子が 友達とのご飯もキャンセルしてしまう。時間にしたくなくて、無駄な人と会っている時間もソワソワしてしまう

 

と話す姿をみて、すごく寂しくなりました。

 

無駄なことの中にも大切なことってあると思うんだ。

 

私は無駄なことをたくさんしてきたけど、

その中で出会った一生涯付き合っていきたい仲間や、いろんな価値観に出会えたから。

 

偉いのは経営者だけじゃないよ。

 

この世の中に生きるいろんな人にインタビューしたからこそ、人の価値観を受け入れられる。

触れたいと思える。

 

この部分は自分が誇っていい部分なのかなぁと思えました。

 

これからきっと辛いことも多いけど、

 

0からのスタートだから、

きっと上に登っていけるはず。

 

自分を含め、

「誰もが自分の持つ可能性や魅力に気づき、人生を明るく楽しく生きる社会を作りたい。」

 

この夢を叶えるために、小さなことから、大きなことまで、全部全部頑張ってこう。

 

映画「ショーシャンクの空に」

大学三年生になり、アマゾンプライム会員になってからというもの、暇さえあれば映画ばかり観ている。

最近は園子温監督や、松居大悟監督の作品が好きで、すなわち邦画ばかり観ていたのだが、会員になってからいつもおすすめの欄に出てくる映画があった。

ショーシャンクの空に」である。

はっきり言って私は、世の中に溢れるお涙頂戴ストーリーの映画には飽き飽きしていた。どうせこの映画もそうなんだろうな…と軽く見ていた。少なくとも私にとって洋画はそんなイメージが強い。

かなり第一印象がよくない作品だ。

だが、読後感ならぬ、観後感がものすごい。


希望と夢を持つ者の強さやしなやかさを感じ、とても勇気付けられる映画であった。

まず、この物語の大部分は刑務所で繰り広げられる。

夢も希望も、持つことが許されないこの場所で、たった一人、生きる希望や目標を見出しそのために新たな人生を歩みだそうと決意したものがいた…


夢を語ることが、なんだかカッコ悪いことのように受け取られがちな、現代。 

努力次第で、多くのチャンスが転がっているのに、自分は何をやっているんだろう、とハッとする瞬間が要所要所にあって、
映画を見ながらもソワソワして、どうしてもじっと見ていることができなかった。

なんども一時停止ボタンを押して自分と向き合いながら、自分のペースで観る。そんな映画だった。


夢、希望、目標。忘れていた心の奥底にそっと優しく触れられたような気持ちにさせる、この映画最後のシーンは、息をするのも忘れてしまうほど。


ぜひ、観てみてください。映画が終わる頃には(あるいは私のように映画の途中で)忘れかけた何かがそっと動き始めるはずです。

地域アートプロジェクトの宙ぶらりんさ

ここ半年程度、地域のアートプロジェクトのちょっとしたボランティアをしている。

大学ではアートを少しかじったことがある程度だけれど、

現代アートの、もつ自由さとか、

日常頭でっかちに考えがちな自分だけど、

身も心も開放してアートと向き合う、

そんな魅力にとりつかれて、

参加することになった。

 

もちろんボランティアだからお金はもらえない。

基本的にはアーティストの作品制作を手伝ったり、アートプロジェクトが終われば、文章でその魅力を伝える記録のおしごと、チラシやパンフレット作り、それを近隣のお店に置いてもらうための営業まがいなもの…

結構やることはたくさんあって、

アートプロジェクトって、アーティスト単体だけじゃ成り立たないんだということに凄く驚いたとともに、

アーティストの存在だけが表向きでは目立つからそこに対して少し、というか、かなりモヤモヤしたものを感じる。

 

前述したように、地域アートプロジェクトに当事者として関与するようになってから凄く色々なことを考える。

個展やギャラリーの展示、美術館の展示などと、地域アートプロジェクトはかなり異なるということ。

前者の諸々は、アーティストの色を濃く出して全然構わない。というかむしろそのことが求められる。

個展や美術館でアーティストの作品を観て、ああ〇〇さんぽいな。〇〇さんはこんなこと考えてるのかな?このような声が出てくるのは当たり前だし、成功しているといえる。

だけど、地域アートプロジェクトというのは全く形態が異なるのだと思う。

それは、地域アートプロジェクトの1番の目的は、その地域の活性化、コミュニティの活性化にある、ということである。

つまり、作家の考えや色ではなくて、地域が活性することを第一に考える。

 

そう考えると、アーティストが自由に表現するということが難しくなってくる。

アーティストがマイナーでシュールな作品を流したら集客にも繋がらなくなってしまうから。

 

アーティストが地域の活性化という目的のために万人ウケを狙った作品を作り始めたら、

その人の色や個性、伝えたいことがないがしろになることが多い。

地域の活性化をアートを通して行う

というのは本当に役に立つのか、また、本当にそれらは共存できるのか?!

 

このようなプロジェクトのボランティアになると、

地域を活性化してほしい地元の方と

自分の好きなように表現したいアーティストと

国や県からの助成金が出ているということ(つまり税金から)によるボランティアとしてアーティストと住民の方との間に存在していることへのプレッシャー

 

の三層にもなる困難にすっかり挟まれることになる。

こう考えると、地域アートプロジェクトは、地域の活性化のために、これから先存続し得ないのではないかと感じる。

 

 

にがくて甘い

江國さんの書く小説が好きだ。

彼女の見ている世界、紡ぐ言葉、行間に表れるふわっとした何か。

その全てに惚れてしまって、抜け出せない。

 

彼女の書く小説には、大それたストーリー性はない。

 

ただ男と女がいて、不倫をして、浮気して、男を追いかけてどこまでも行く。

普通の夫婦、恋人ではなくて、どこか少し歯車がズレている。

そんな設定を全く暗さや陰湿さを感じさせずにサラッと軽やかに描く。

 

彼女のように、言葉で世界を甘くコーティングしたい。

大それた物語はかけなくてもいいから、

言葉選びだけは、上手くなったねって言われたい。

 

苦いオレンジに、もだえるように甘いチョコレートをかけて、そばにいる人を幸せにできたらなと思う。そのために言葉を紡ぎたい。

メロンソーダがしゅわしゅわっとして。

きょうは本当は一人でぶらぶら街を散歩するつもりだったんだ。

なんのあてもなく。

 

一人はもともと好きだった。

なりふり構わず好きなお店に入って、古本屋に入ってパラパラ立ち読みをしながら自由気ままに時を過ごすの。

 

だけど、一人でぶらぶらし始めてから、ああ一人で来てよかったって思う時と、二人の方がいいな、今から誰か来てくれないかなって思う時がある。

 

きょうはすごく後者の方で、そしてボーイフレンドにすごく会いたくなった。

 

だから連絡をしてしまった。彼は思いがけず来てくれるっていうから、

犬みたいな人だなあ、かわいいなあって思いながらドキドキして待ってた。

 

だけどいざ待ち合わせをして顔を合わせると、あれ、話すことがない。

なぜか彼に会うと、会っていることだけに満足してしまって、

話すべき話がいつもできない。将来のこととか、今の悩みとか、自分の情けなさとか、

裸になって話せない。

 

そんな調子のまま夕飯までの時間を埋めるように過ごしていたから、

なんだかすごく疲れてしまう。時間を過ごすのではなくて、

時間を埋めていくような感覚。

 

帰りはなんだかそのまま家に帰るのが嫌で、つい寄り道をした。

一人になると、どっと疲れが出て、ああ、私こんなに疲れていたんだと驚いてしまう。

メロンソーダを駅の近くのハンバーガーショップで飲みながらぼんやりしていたら、

向かい側の少し離れているところに座っていた女の人と、

視線が空中でぶつかった。

 

しゅわっと口の中でメロンソーダが弾けたその時に、なんだかすごくほっとしてしまって、2人に足りないものを一人で埋めているような感覚に、すごく虚しくなってしまった。

 

和式のトイレとわたし

女性なら一度は経験があることだと思う。

 

トイレ待ちの列に並んでいる時、

一つ個室が空いたのに、先頭の人が動こうことしない。

 

なんでだろうとぼんやりしながら待っていると、

 

「和式、よかったらどうぞ」

 

こう声をかけられる。

しかも、声をかけてくれるのは大体見た目が女性らしくて可愛い人が多い。

私なんか、ガタイが良くて、和式に足を踏み込むだけ(和式って結構踏み込むのに筋力をつかう)

の力があるように見えるから、

 

大概、おまえ、すごい和式入れそうな雰囲気醸し出してるのに入らないのかっ!

って

思われそうで恥ずかしくて

 

誘いを毎回受けてしまう。

 

多分譲ってくれた人は、

布団ではなくベッドで寝るんだろうなとか

朝ごはんは

白米に納豆ではなく、パンにイチゴジャム(多分自分で煮込む)なんだろうな

って勝手に妄想をしたりもしている。

歯がゆくも大切な、間のおはなし


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これは二ヶ月ほど前にパリを旅行した際の、街中の写真。綺麗な町並みからちょっと裏に入ると、落書きがあったりして…。

 

今日は寝る前に少し、間について話したいと思う。

あいだ じゃなくて ま の方の。

 

私は小さい頃から、人当たりが良くて、愛想が良くて、誰とでも仲良くなれるキャラだった。

結構幼いなりに周りにかなりの気を遣って生きてきたような気がする。

 

小学生の頃は、仲良し三人組が、2:1に分かれて、あんたどっちの味方なのよ!

と攻め立てられ、どちらにもいい顔をしたことで、二人から嫌われてしまうなんてこともよくあった。

 

なんていうのだろう、もう、典型的な日本人って感じで、

 

そんな時は、いつも間を読んでいたんだよね。あ、今こんなことがあったから、こんな風にきっと思ってるんだろうな、みたいな。

 

間を読むのって結構疲れるんだよね。

 

でも、最近 間 って意外に大事なのかもって思うことが増えて。

 

例えば付き合いたてのカップルって、緊張して何話せばいいかわかんなくて、

 

「けんと君、どんな映画見るの?」「…あ、んーとね、…フォレストガンプとか好きだよ。」みたいな、

 

この 緊張感が外まで滲み出ちゃってるこの、間。

 

仲良しの友達でも結構ある。

一つの話題が終わって、次の話題に移る時に、何話そうってお互いが考えてる時に、訪れる間。

 

これって、関係を良くしていくために大事な、ちょっとしたスパイスみたいなものだと最近すごく思う。

間って、相手のことを思いやっている時に訪れるものだし、

大事にしてるからこそ生まれてくるものなのだと思うから。

 

ここで、恋愛の話をして最後を締めくくるのはどうかとも思うのだけど、(笑)

 

最近倦怠期を迎えている、彼氏と自分とのことを振り返ってみると、

この 間 がないなあと思って、もしかしたらこの間のなさが、お互いへの無関心を表しているのかもしれないと感じてる…

 

スパイスのないカレーは、どこか旨味が足りないように感じるみたいに。

 

彼と自分との間に流れるのは、 間 ではなくて、もっと湿り気のあるどんよりとした空気なのであって、

 

そこには緊張感ではなくて気だるさとかマイナスのものがいっぱい含まれてるのかもと

 

うとうとしながら考える夜なのでした。

 

間 もリフレッシュしなければいけない時に来ているみたいです。