映画「ショーシャンクの空に」

大学三年生になり、アマゾンプライム会員になってからというもの、暇さえあれば映画ばかり観ている。

最近は園子温監督や、松居大悟監督の作品が好きで、すなわち邦画ばかり観ていたのだが、会員になってからいつもおすすめの欄に出てくる映画があった。

ショーシャンクの空に」である。

はっきり言って私は、世の中に溢れるお涙頂戴ストーリーの映画には飽き飽きしていた。どうせこの映画もそうなんだろうな…と軽く見ていた。少なくとも私にとって洋画はそんなイメージが強い。

かなり第一印象がよくない作品だ。

だが、読後感ならぬ、観後感がものすごい。


希望と夢を持つ者の強さやしなやかさを感じ、とても勇気付けられる映画であった。

まず、この物語の大部分は刑務所で繰り広げられる。

夢も希望も、持つことが許されないこの場所で、たった一人、生きる希望や目標を見出しそのために新たな人生を歩みだそうと決意したものがいた…


夢を語ることが、なんだかカッコ悪いことのように受け取られがちな、現代。 

努力次第で、多くのチャンスが転がっているのに、自分は何をやっているんだろう、とハッとする瞬間が要所要所にあって、
映画を見ながらもソワソワして、どうしてもじっと見ていることができなかった。

なんども一時停止ボタンを押して自分と向き合いながら、自分のペースで観る。そんな映画だった。


夢、希望、目標。忘れていた心の奥底にそっと優しく触れられたような気持ちにさせる、この映画最後のシーンは、息をするのも忘れてしまうほど。


ぜひ、観てみてください。映画が終わる頃には(あるいは私のように映画の途中で)忘れかけた何かがそっと動き始めるはずです。

地域アートプロジェクトの宙ぶらりんさ

ここ半年程度、地域のアートプロジェクトのちょっとしたボランティアをしている。

大学ではアートを少しかじったことがある程度だけれど、

現代アートの、もつ自由さとか、

日常頭でっかちに考えがちな自分だけど、

身も心も開放してアートと向き合う、

そんな魅力にとりつかれて、

参加することになった。

 

もちろんボランティアだからお金はもらえない。

基本的にはアーティストの作品制作を手伝ったり、アートプロジェクトが終われば、文章でその魅力を伝える記録のおしごと、チラシやパンフレット作り、それを近隣のお店に置いてもらうための営業まがいなもの…

結構やることはたくさんあって、

アートプロジェクトって、アーティスト単体だけじゃ成り立たないんだということに凄く驚いたとともに、

アーティストの存在だけが表向きでは目立つからそこに対して少し、というか、かなりモヤモヤしたものを感じる。

 

前述したように、地域アートプロジェクトに当事者として関与するようになってから凄く色々なことを考える。

個展やギャラリーの展示、美術館の展示などと、地域アートプロジェクトはかなり異なるということ。

前者の諸々は、アーティストの色を濃く出して全然構わない。というかむしろそのことが求められる。

個展や美術館でアーティストの作品を観て、ああ〇〇さんぽいな。〇〇さんはこんなこと考えてるのかな?このような声が出てくるのは当たり前だし、成功しているといえる。

だけど、地域アートプロジェクトというのは全く形態が異なるのだと思う。

それは、地域アートプロジェクトの1番の目的は、その地域の活性化、コミュニティの活性化にある、ということである。

つまり、作家の考えや色ではなくて、地域が活性することを第一に考える。

 

そう考えると、アーティストが自由に表現するということが難しくなってくる。

アーティストがマイナーでシュールな作品を流したら集客にも繋がらなくなってしまうから。

 

アーティストが地域の活性化という目的のために万人ウケを狙った作品を作り始めたら、

その人の色や個性、伝えたいことがないがしろになることが多い。

地域の活性化をアートを通して行う

というのは本当に役に立つのか、また、本当にそれらは共存できるのか?!

 

このようなプロジェクトのボランティアになると、

地域を活性化してほしい地元の方と

自分の好きなように表現したいアーティストと

国や県からの助成金が出ているということ(つまり税金から)によるボランティアとしてアーティストと住民の方との間に存在していることへのプレッシャー

 

の三層にもなる困難にすっかり挟まれることになる。

こう考えると、地域アートプロジェクトは、地域の活性化のために、これから先存続し得ないのではないかと感じる。

 

 

にがくて甘い

江國さんの書く小説が好きだ。

彼女の見ている世界、紡ぐ言葉、行間に表れるふわっとした何か。

その全てに惚れてしまって、抜け出せない。

 

彼女の書く小説には、大それたストーリー性はない。

 

ただ男と女がいて、不倫をして、浮気して、男を追いかけてどこまでも行く。

普通の夫婦、恋人ではなくて、どこか少し歯車がズレている。

そんな設定を全く暗さや陰湿さを感じさせずにサラッと軽やかに描く。

 

彼女のように、言葉で世界を甘くコーティングしたい。

大それた物語はかけなくてもいいから、

言葉選びだけは、上手くなったねって言われたい。

 

苦いオレンジに、もだえるように甘いチョコレートをかけて、そばにいる人を幸せにできたらなと思う。そのために言葉を紡ぎたい。

メロンソーダがしゅわしゅわっとして。

きょうは本当は一人でぶらぶら街を散歩するつもりだったんだ。

なんのあてもなく。

 

一人はもともと好きだった。

なりふり構わず好きなお店に入って、古本屋に入ってパラパラ立ち読みをしながら自由気ままに時を過ごすの。

 

だけど、一人でぶらぶらし始めてから、ああ一人で来てよかったって思う時と、二人の方がいいな、今から誰か来てくれないかなって思う時がある。

 

きょうはすごく後者の方で、そしてボーイフレンドにすごく会いたくなった。

 

だから連絡をしてしまった。彼は思いがけず来てくれるっていうから、

犬みたいな人だなあ、かわいいなあって思いながらドキドキして待ってた。

 

だけどいざ待ち合わせをして顔を合わせると、あれ、話すことがない。

なぜか彼に会うと、会っていることだけに満足してしまって、

話すべき話がいつもできない。将来のこととか、今の悩みとか、自分の情けなさとか、

裸になって話せない。

 

そんな調子のまま夕飯までの時間を埋めるように過ごしていたから、

なんだかすごく疲れてしまう。時間を過ごすのではなくて、

時間を埋めていくような感覚。

 

帰りはなんだかそのまま家に帰るのが嫌で、つい寄り道をした。

一人になると、どっと疲れが出て、ああ、私こんなに疲れていたんだと驚いてしまう。

メロンソーダを駅の近くのハンバーガーショップで飲みながらぼんやりしていたら、

向かい側の少し離れているところに座っていた女の人と、

視線が空中でぶつかった。

 

しゅわっと口の中でメロンソーダが弾けたその時に、なんだかすごくほっとしてしまって、2人に足りないものを一人で埋めているような感覚に、すごく虚しくなってしまった。

 

和式のトイレとわたし

女性なら一度は経験があることだと思う。

 

トイレ待ちの列に並んでいる時、

一つ個室が空いたのに、先頭の人が動こうことしない。

 

なんでだろうとぼんやりしながら待っていると、

 

「和式、よかったらどうぞ」

 

こう声をかけられる。

しかも、声をかけてくれるのは大体見た目が女性らしくて可愛い人が多い。

私なんか、ガタイが良くて、和式に足を踏み込むだけ(和式って結構踏み込むのに筋力をつかう)

の力があるように見えるから、

 

大概、おまえ、すごい和式入れそうな雰囲気醸し出してるのに入らないのかっ!

って

思われそうで恥ずかしくて

 

誘いを毎回受けてしまう。

 

多分譲ってくれた人は、

布団ではなくベッドで寝るんだろうなとか

朝ごはんは

白米に納豆ではなく、パンにイチゴジャム(多分自分で煮込む)なんだろうな

って勝手に妄想をしたりもしている。

歯がゆくも大切な、間のおはなし


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これは二ヶ月ほど前にパリを旅行した際の、街中の写真。綺麗な町並みからちょっと裏に入ると、落書きがあったりして…。

 

今日は寝る前に少し、間について話したいと思う。

あいだ じゃなくて ま の方の。

 

私は小さい頃から、人当たりが良くて、愛想が良くて、誰とでも仲良くなれるキャラだった。

結構幼いなりに周りにかなりの気を遣って生きてきたような気がする。

 

小学生の頃は、仲良し三人組が、2:1に分かれて、あんたどっちの味方なのよ!

と攻め立てられ、どちらにもいい顔をしたことで、二人から嫌われてしまうなんてこともよくあった。

 

なんていうのだろう、もう、典型的な日本人って感じで、

 

そんな時は、いつも間を読んでいたんだよね。あ、今こんなことがあったから、こんな風にきっと思ってるんだろうな、みたいな。

 

間を読むのって結構疲れるんだよね。

 

でも、最近 間 って意外に大事なのかもって思うことが増えて。

 

例えば付き合いたてのカップルって、緊張して何話せばいいかわかんなくて、

 

「けんと君、どんな映画見るの?」「…あ、んーとね、…フォレストガンプとか好きだよ。」みたいな、

 

この 緊張感が外まで滲み出ちゃってるこの、間。

 

仲良しの友達でも結構ある。

一つの話題が終わって、次の話題に移る時に、何話そうってお互いが考えてる時に、訪れる間。

 

これって、関係を良くしていくために大事な、ちょっとしたスパイスみたいなものだと最近すごく思う。

間って、相手のことを思いやっている時に訪れるものだし、

大事にしてるからこそ生まれてくるものなのだと思うから。

 

ここで、恋愛の話をして最後を締めくくるのはどうかとも思うのだけど、(笑)

 

最近倦怠期を迎えている、彼氏と自分とのことを振り返ってみると、

この 間 がないなあと思って、もしかしたらこの間のなさが、お互いへの無関心を表しているのかもしれないと感じてる…

 

スパイスのないカレーは、どこか旨味が足りないように感じるみたいに。

 

彼と自分との間に流れるのは、 間 ではなくて、もっと湿り気のあるどんよりとした空気なのであって、

 

そこには緊張感ではなくて気だるさとかマイナスのものがいっぱい含まれてるのかもと

 

うとうとしながら考える夜なのでした。

 

間 もリフレッシュしなければいけない時に来ているみたいです。

サンシャワー展に行ってきました

この夏六本木の森美術館新国立美術館の両方で同時開催されている、サンシャワー展に、昨日、行ってきました。

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サンシャワー展はASEAN設立50周年を記念して開催されている国内過去最大規模の東南アジア現代美術展で、私としても、東南アジアのアートというものに初めて触れた体験でした…!

 

アートというものに興味を持ち始めたのは、大学生も後半になってからですが、今まで見てきた作品と東南アジアのアートは、かなり色が異なるなと初心者ながらでもよく解りました。

 

東南アジア地域は第二次世界大戦終戦した後も、独裁政権などが多く存在し、国民は表現の自由はおろか、命までも狙われることが多々あったのです。(日本は1945年以降、平和を保ち続けているから考えにくい事実ではありますが…。)

 

例えば、カンボジアポル・ポト政権、インドネシアスハルト大統領による開発独裁等々。

 

今でこそ東南アジアは経済発展を遂げ成長してきてはいますが、

本当に最近まで、苦しい生活を強いられてきた国民はたくさんいます。

 

そのような状況の中で、発展してきた東南アジアのアートは、当然の成り行きではありますが、

 

やはり、自国の独裁政治に対する抗議の念や平和への思いを強く込めた作品が本当にたくさんあるように見受けられました。

 

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これは、インドネシアスハルト大統領による30年間の独裁政権が終了したことを示すインスタレーションです。

学生運動に使われたというオートバイの上には、イスラム教徒や政党、軍隊などの様々な団体の声が側に印刷されはためいています。

 

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こちらはベトナム戦争の北爆の際に実際に戦闘機の中で使用されていた椅子を使用した作品です。

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これは、シンガポールがマレーシアから独立せずに、マレーシア国に統一されていたら…というもしもの状況を皮肉たっぷりの歌と映像にしたてた作品です。

 

カラオケボックス風の部屋で映像を放映することで、不気味なほどの愉快さみたいなものを感じ背筋がぞわっとなりました…。

 

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新国立美術館の展示の最後にある参加型のインスタレーション作品です。

消費文化と資本主義経済に対して批判的なまなざしを向けた作家は

5トンにもなる糸の山の中に鑑賞者を迎え入れ、この中に紛れ込んでいるという金のネックレスをさがさせるという趣旨にものであり、

その必死に探す様子姿を外から客観的に見ていると、確かに消費文化をもっとも簡潔な形で表しているように感じる面白い作品でした。